2011年1月9日日曜日

新たなるラオコーンとトルストイに向かって

『さらに新たなるラオコーンに向かって』を端的にまとめれば、藝術作品における支持体、およびメディウムそのものの、そのメディウムにしかできない独自性の追及をこそ純粋藝術であるとしている。また、その造形的、または抽象的に質の高い作品が価値のあるものであると肯定的にグリーンバーグはとらえており、純粋藝術は歴史的な必然性のもとに生じたとも説いている。優れた純粋藝術の作品としてあるならば、いかなるコンテキストも排除せねばならなず、神話や聖書の物語はその作品の純粋性に関しては邪魔なもの、および不純物であり、その作品の質を落とすものであるとする考えである。

 グリーンバーグのこの考えはもはや既に過去の遺物である。真に優れたる藝術作品は純粋性にもコンテキスト性にも、なんらその存在を縛られるものではない。いや、むしろその純粋性もコンテキスト性も十二分に抱合するものである。真に優れたる藝術の神髄の懐はあまりにも深いのである。

いろいろ様々な感じ、非常に強いのも弱いのも、ごく目立つのもまるで何でもないのも、非常に悪いのも非常にいいのも、ただ読む人、見る人、聴く人がそれに感染しさえすれば、芸術の作品になる。劇に現わされた自分の身を棄てるとか運命や神にまかせるという心持、小説に書かれた恋人同士のうっとりした感じ、絵画に描かれた肉欲の感じ、音楽で凱旋行進曲に写された勇壮な感じ、舞踏で示される快活な感じ、笑い話に出てくるおかしみの感じ、又は夕暮れの景色や子守唄に現わされる静かさの感じ、これはみんな芸術だ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 60から61ページ]

ということが私の考える藝術の定義であり、グリーンバーグの定義、及び、価値基準の範囲はやや狭隘である。またさらに、

見る人、聴く人が創作作家の受けた心持に感染しさえすれば、それでちゃんと芸術になる。
一度味わった心持を自分の中に呼び起こして、それを自分の中に呼び起こした後で、運動や線や色や音や言葉で現わされる形にしてその心持を伝えて、他の人がその心持ちに感染してそれを感じるようになるという人間の働きがある。芸術とは、一人の人が意識的に何か外に見えるしるしを使って自分の味わった心持を他の人に伝えて、他の人がその心持に感染してそれを感じるようになるという人間のはたらきだ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 61ページ]

簡単にいうなれば、芸術とは、

人間の交通の手段、人間を同じ心持の中に結び付けるための手段だ[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 61ページ]

ということである。

純粋藝術にはこの働きが少なく、つまり感染力が弱いのである。人間は今現在どこまで行っても身体から離れることはできていない。そのために神話や聖書の物語は自身の身体的感性に訴えてくる為に純粋藝術よりは心を打つのである。レオナルドやミケランジェロのほうが、よしんばそれが神を現わしていようとも、より身体感覚で実感できるという点で人間的であるため、かつ人間は生まれた瞬間から一番人間に反応するのであり、人間を見ること、感じることは生得的な本能にも起因する為、コンテキスト付けられたものの方がその作品世界に入りやすい、つまり感動しやすいといえるだろう。

またさらには、 

芸術の価値つまり芸術の与える心持の価値を決めるのは、人生の意味を人間がどう見るか、いい換えると、人間が人生の善はどこにあって悪はどこにあるかということに関係している。そうして人生の善と悪は宗教といわれているものがきめる。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 65ページ]

ということからもわかる通り、何がよくて、何が間違っているかどうかは個人の人生の見方にその価値基準が委託されるということである。個人の内面に話が及んだ瞬間に神聖不可侵なものになるのが戦後民主主義の定石であるが、このプロタゴラスの相対主義はいずれ打ち破らねばならないものである。プロタゴラスのその先にソクラテスが待っているのである。待っているのであるが、そこにはグリーンバーグがいうように教養がなければわからない美があるという世界も待ち構えている。無知文盲なブルーカラーと、崩壊しつつある一億総中流のホワイトカラーと、プチブルジョワジーのインテリたちとが、まったく無条件で同じくらいに感動するものはあるのか、ということに結局話は行き着く。トルストイはこう言う。

立派な芸術品はすべての人がそれに近づいてわかるようになるからこそ立派なのだ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 129ページ]と。

わかりやすい例を挙げるなら、最近ではヒルズ族もブルカラーもハマった映画ドラマである24だろう。ERやプリズンブレイクもいい。タイタニックやガンジーなども素晴らしい。基本的にそういったアカデミー賞を獲る映画、多くの人々に感動をもたらすエンターテインメント映画などは現代においては、それなりに優れた藝術作品であるといえよう。

最後にトルストイはこうも言う。

現代の芸術の務めは、人間の幸福は人間同士が一つに結び付くというだという真理を、理性の領分から心持の領分に移して、いま支配している暴力の代わりに、神の支配、つまり我々みんなで人類の生活の最高の目的と考えられている愛をしっかりと立てることだ。[岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 257ページ]

詩人マラルメは、詩の魅力はその意味を推察させるところにあるので、詩にはいつでも謎がなければならないと真っ向から説いている。『私の考えでは仄めかしだけが必要だ。物をじっと眺めること、ものが誘い起した夢から舞い出る形、それが歌だ。パルナス派の人たちは物をそっくりとって来てそれを見せる。そこであの派の作品には神秘がなくなる。読む人の心から、創作した人のつもりになって感じる何とも言えない喜びを奪うことになる。物に名前を付けてしまっては、少しずつ推察してゆく嬉しさという詩人の楽しみを大部分を毀すことになる。仄めかすということ、それが、夢だ。この神秘を完全に使うことが象徴というものだ。物の姿を少しずつ呼び出して気分を示すか、又は逆に、物を選んでその意味を次々に仄めかして行ってそこから気分を浮かびださせることだ。』 [岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店100ページ]

 詩にはいつでも謎がなくてはならない。それが文学の目的なのだ。他に目的はない。仄めかしだけで物を描かなければならない。 [岩波文庫 芸術とはなにか トルストイ著 河野与一訳 岩波書店 101ページ]

マラルメの詩は実に優れた藝術作品ではあるが、トルストイの定義する藝術とは相いれない。

グリーンバーグのいう純粋藝術はこの意味において、人類そのものの連帯を喚起させるようなものではない。だが今までの藝術作品が人々を結びつけたかどうかも定かではないが、すくなくとも、歴史的に見て言論の自由が建前であっても保障されている今の世の中の方が間違いなく人々を連帯させた素晴らしいものだとも言えるし、民主国家同士の戦争が未だ起こっていないというのは一縷の望みにも思える。優れた藝術作品がその世界形成に少なからず影響を与えているのは間違いのないことだろう。マルクスやウェーバー、ハンナ・アーレント等の学問の名著だって、リンカーンやキング牧師、オバマの歴史的な演説だって至極優れた藝術の神髄である。

当然、ソクラテスやゴウタマ、イエス、孔子、ムハンマドなどのパフォーマーは天才的、神的である。


 総じて、真に優れたる藝術作品とは“神”を感じさせる作品である。ここでいう“神”とは“感動”と置き換えてもいいかもしれない。国家、人種、宗教、性別などありとあらゆる制約を超越して、掛け値なしに、無条件で、ひざまずきたくなるもの、手を合わせたくなるもの、祈りたくなるもの、神聖で崇高な“あはれ”を感じさせるものである。あぁ、素晴らしい!と生きててよかったと心の底から思わせることのできるもの、魂をカタストロフィックに震撼させてくれるものであればなんでもよろしいのである。レオナルドや、ミケランジェロ、それにポロックだって、ロセッティだって、ジャッカスだってなんだっていいのである。それがより多くの人間を感動させればさせる分だけ、素晴らしいものであり、鑑賞者に涙を流させれば流させた分だけ素晴らしいのである。そしてそれを見た人間にとっての一生涯の友となれればそれは最高の藝術作品であると言って差し支えないのである。その鑑賞者の挫折時に、また愛するものを失った時に、いつでもそばにいて、優しく、時に厳しく支えてくれる、そんな作品のことをマスターピースというのである。造形藝術、非造形藝術問わず、利他的行為などの日常の行為までをも藝術の神髄は網羅する。トルストイは禁欲的である。それもまた狭隘である。官能なくして我が人生なし。女なくして我が人生なしであるのだから。もう一度話をまとめれば、実に“神”感じさせるもの、その行為、またはその作品が全能であり、全知であり、美しく、真であり、善であり、遍在である一者を感じさせるものをこそ真に素晴らしく優れたる作品といい、実に人類最高の遺産であるといってよろしいのである。

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