手がかじかむ。昨日から部屋の暖房の調子が悪い。手が凍えてうまくキーが打てない。14度という極寒の中で今日もブログを更新する。誰の為に?余自身の為に。おぉ、誰がために鐘は鳴る?余が自身の為に。
就活、もとい働くとは嫌なことを我慢することである。いうなれば給料は我慢料である。働かざる者食うべからずの前提においては、嫌でも喰っていくためには仕事をせねばならない。仕事とはものを動かすことである。自身の体を動かし、ものを動かすことである。そうして何らかの剰余価値を生み出すものである。このことをまず忘れてはならない。さて、以前このブログで就活とは魂を売ることであると書いたが、それについて補足をしたい。まず言いたいのは、すべての仕事は売春であるということである。全ての人間は売春婦である。嫌なことをしてお金をもらっていること、その構造においては皆が同じである。だが、そこに一種の違和感がある。イチローとさえない営業サラリーマンとの違いである。どちらも自身の体を動かし、仕事をしている。だが何かが違う。どちらが魂を売っているかと、もし強制的に問いただされたら、どちらをこたえるであろうか?多くの人がサラリーマンの方を選択するであろう。その違いはなんであろうか。収入の多寡にその違いを見てとるのであろうか、それとも有名か否かにその指標をとるのか、いったいその違いはどこに起因するのか。そこを分析、吟味していく。
どちらも我慢料をもらっている。イチローもサラリーマンもどちらも辛いことをしている。どちらも魂を売っている。イチローは魂を売っていない。という反論もあろう。まぁ、落ち着いて余の話を聞くがよい。数学的に場合分けして、定義立てて考えていく。まずは嫌なことはすべて魂を売ると定義する。もちろん、イチローもその分にもれず、この範囲を仕事以外にも当てはめれば、嫌なことを我慢する行為は全て魂を売るとしてみてもよい。違和感、反証はあとで検証に回してみることにして今はこのまま進んでいく。魂を売るということばは一般的にポジティブな表現ではない。魂を売るにはその売る相手が明示されておらず、一般的にコンテキスト付けられる文化的な背景としては、売る相手はたいてい、悪魔か鬼であり、そして売った理由がその売った人間の自己利益の為が大方であり、その結果はたいてい悲惨な目にあって終わるというのがおおまかなところである。そのため
魂を売るという行為はネガティブなニュアンスを帯びる。自己の利益の為に、わかってはいても、やらざるをえない人間の弱さ、破滅への予兆がそこに見てとれ、就活という本当はやりたくないことをやらねばならない業のアナロジーをそこに見いだすがためであろう。就活に関して、このことばがよく用いられるのはそんなニュアンスがあるからである。また会社、組織という大きなものに自己を滅す、埋没させるということも自己を消すという点で人格の主体であり、自身の自身たるゆえんである魂ということば用いて、そしてそれを売るという表現が実にふさわしいからということもあるであろう。それゆえに魂を売るという言葉は言い得て妙である。
だがさらに話を進める。ここでイチローとサラリーマンを同列に扱う上で問題となるのは、その違いである。どちらも魂を売っていると定義した。その定義に矛盾せぬ理由をここであげたい。さきに述べたように魂の売られる相手が問題なのである。サラリーマンは魂を何に売ったのであろうか、イチローは、石川遼は何に魂を売ったのであろうか?そこが新たな論拠となる。端的に言えば、魂を売った相手が違うのである。イチローは野球に魂を売ったのである。石川遼はゴルフに魂を売ったのである。その為なら嫌なこと、つらいことも耐えて見せると契約を交わしたのである。サラリーマンは魂を会社に売ったのである、と言いたいところではあるが、それは本質を突いてはいないのである。サラリーマンは何に魂を売ったであろうか、サラリーマンは、そう、そうなのである。彼らは自身のしあわせにその魂を売ったのである。そのしあわせの為なら、嫌なことも。辛いことも耐えて見せると誓ったのである。
つまり、イチローとサラリーマンの違いは魂を売る方向がより明確か否かであり、その売る主体が予測不可能かつ、競争がもっとも激しい対象であり、経済学的にも希少性に富むものであるからである。
魂を売るということばは、実はそれ自体ではニュートラルな言葉である。誰に売るかでポジにもネガにもなるのである。魂は神にも売れる。悪魔にも売れる。妻にも、子どもにも、AKBにも売れる。イチローだけではない。役者に、学問にも魂を売ることができる。そして、その魂を売る対象が明確であればある程、そして競争が激しければ激しいものほど、リスクがでかければでかいほど、人から見て、かっこよく映るのである。嫌なことをすることはすべて魂をうることである。狭き道で道をゆずることは神に魂を売ることである。憎しみの連鎖を止めることもまた神に魂を売ることである。実に魂を売るとは、魂を捧げることである。その為に自己を滅し、精進するためのものである。
サラリーマンは、小さきしあわせの為に魂を売るのである。合コンで少しでもモテる為に魂を売るのである。ローンの残るマイホームで健やかに眠る妻子の為に魂を売るのである。お父さんは実に偉大である。名もなきサラリーマンではあるが偉大なのである。偉大といったら偉大なのである。
多くのものが魂を売る。金に魂を売ったとなると穢いように思えるが、実に皆たいていのものは金に、経済的な豊かさに魂を売っているのである。自分の欲しいものとリスクとを相談して、魂を売る相手を吟味するのである。余もそのたぶんにもれないのである。ただ余はそれを金ではなく、自由に置くだけである。自由に魂を売るの者なのである。真に、善に、美に魂を売るものである。売りたいと願うものである。
またさらに、目的のためには魂を売ることも大いに結構である。出世の為に尺八をしたり、就職先のコネを売るために媚を売ったりすることは、その為に魂を売ることである。プライドも、恥も外聞も捨てて、心から欲しいと思ったものだからである。本当に欲しいと思うものに、それは捧げられるべきである。ストラディバリウスは金持ちが持つものではなく、サラサーテが持つものである。勇者の剣は勇者が持つべきものである。
美しい花を摘むためには勇気を出して崖の先までいかねばならぬ。
そこまでしてほしいのであるならば。
"Ask, and it will be given to you; seek, and you will find; knock, and it will be opened to you.
魂は自分の心に売れ!
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