2011年1月25日火曜日

日本茶チャ茶!


 日本におけるレオナルド、ミケランジェロに相当するカウンターパートとはいったい何であろうか。洋の東西を問わず、美術、藝術を論ずれば一番はじめに頭の中のイメージはこの二者を思い描くであろう。またはピカソか、岡本太郎か。いずれにせよこのレオナルドとミケランジェロとは西欧のマエストロの中でも格が違う。特別視される存在である。現在、世界のアートマーケットを牛耳るのは西欧である。サザビーズやクリスティーが世界を席巻する。彼らがルールであり、それに従わねばアートとは認められない現状がある。そんな彼らのルールの中において、日本の藝術、美術の扱いはいったいどうなっているのだろうか、レオナルドとミケランジェロの作品と日本のアーティストの作品とを比較して、地球最後の日にどちらか一作品だけを残すことができるとしたら、一つの作品だけを宇宙船に乗せることができるのだとしたら、というそんな問いを道行く人に訊いたときなんという答えが返ってくるであろうか。多くは、レオナルド、ミケランジェロの名をあげるだろう。それは我々を取り巻く文化環境のせいなのであろうか、はたまた本当に、純粋に作品そのものの持つ価値に由来しているのであろうか。わからない。わからないがそれが現実だ。西欧におけるカウンターパート、汗びっしょりになるまでどちらの作品を宇宙に送るか考えられる作品が日本にはあるか、彼らのルールに従ってるうちにそれは可能であろうか、また、別の文化圏の作品を比べることに無理があるのか、はたまた、造形藝術に限らず、文学、音楽などにその一筋の光明をみるか、考察するべき対象は五万とある。論ずる余地は無限にある。その無限に対峙した時、茫然自失となり、いままでの流れに身をゆだねるのか、それとも流れに逆らい新たな境地を開拓するか、現状肯定かドンキホーテか、余はドンキホーテになりたし。
 
 二者を比較する。比較すれば見えてくることがある。西欧と東洋と日本の様式の違いに考察のヒントがあるように思えてならない。比べることはいいことだ。ヴェルフリンだって比べた。日本が知りたいのなら、海外に行け。と同じ構造である。比べれば比べるだけその対象の特質が浮き彫りになってくる。

比較するに当たりまずは、比較を定義する。比較とは同じところと違うところを分析するところにある。レオナルド、ミケランジェロと共に無限者を扱っている。西欧の様式は細密で緻密な、病的なまでの描写である。レオナルドのミクロ点描画法やミケランジェロの超超絶技巧がその例である。それに比べて日本は無限を表現する際には省略を用いる。ここで二つに議論の方向は分かれて行く。レオナルドやミケランジェロのカウンターパートとして細密な描写で対抗するか、省略で対抗するかということである。日本における超絶技巧を凝らした細密描写とは何であろうか。簡単なところでは彫刻の対として運慶があげられる。これならば対抗できる気がする。西欧で運慶がどう思われているか、私は良くは知らない。できれば御教授願いたいものである。いずれにせよ、私の直覚がそう言っているのは間違いないのである。だが日本の細密描写でモナリザに対抗するものが私にはすぐに浮かんでこない。であるから、ここでは日本の得意芸である省略の方からアプローチして行く。

 まずは当然、利休である。削ぎの美の代名詞である。茶である。前衛である。日本人のお家芸は前衛にこそあるのかもしれない。抑圧の壁が高ければ高いほど、前衛の伸びんとする圧力が強まるのかもしれん。それに戦国の世にあって茶という前衛藝術で、小指で簡単に人の首を飛ばすような絶大な権力者たちと渡りあったというところが凄すぎる。それは教皇に物申したミケランジェロにも通ずる。野上弥生子の小説を読むとその凄さが伝わってくる。五本の指で数えられるか、否かの畳の間に、そこに添えられた一輪の花に、虚空が、幽玄が、無限の宇宙が広がるのである。

そして、さらには芭蕉である。

静けさや 岩にしみ入る 蝉の声

夏草や 兵どもが 夢の跡

もう説明する必要もあるまい。たった15文字の世界が無限のイマジネーションを頭の中に押し広げる。その省略は聞くものに、万人が万人に同一の言葉では説明し得ないあの何とも言えぬ、もののあはれを感じさせる。その無限はレオナルドやミケランジェロにも相当すると言っても過言ではあるまい。

だがここで問題となることがある。それは文化の壁と、言語の壁である。利休の無限は日本文化を理解せねばわからぬのではないか、芭蕉は日本語を知らねば、それもネイティブでなければ分からぬのではないかということである。レオナルドもミケランジェロもそれが造形藝術であるだけに人種、国家、宗教等、ありとあらゆる垣根を越えて見るものを無限の世界に誘うだろう。つまりこの両者も日本人にとっては同等の無限の表現者であっても、一歩世界に出ていけば理解され得ないものになるのかもしれない。詳しいことはわからぬがそんな気がする。

では造形藝術のカウンターパートは誰であろうか、すぐに思い至るのが光琳と等伯である。どちらも省略で無限を表わす。時期的にも利休と被る。日本のルネサンスに相当する時代は安土・桃山である。書いていてそんなことを思った。だが、これすらも日本人の心を揺さぶるに足るだけであって。人類最後の一枚には世界の常識というアートワールドのルールの下では、その普遍性を勝ち得ないのではないかという疑問も残る。藝術的に価値を議論することは荒唐無稽であるが、極端な馬鹿げた疑問には真実が隠れている。人質にとられた妻と子供、どちらか一人を助けることができる、さてどうする?究極の二者択一、カレー味のうんこかうんこ味のカレーかなら話は簡単である。そこらの素人が絵画教室で描いた絵とレオナルドなら話は簡単である。マエストロ同士になると話は変わる。国家のメンツが絡むと話は変わる。音楽も文学もそうだ。人類全ての藝術のうちでたった一つだけ作品が残せるのだとしたら、人類はいったい何を残すのであろうか。バッハか、レオナルドか、聖書か、ラスコーか。究極を超えた、至高すらも越えた、禅問答的命題中の禅問答である。

話が広がった。元に戻す。とりあえず、いまのところ私がたどり着いた日本におけるレオナルド、ミケランジェロのカウンターパートは漫画の神様こと、手塚治虫である。今回は“静”なる造形作品を考察するとすれば黒澤と駿も外しがたいが、今回は手塚について述べることになる。漫画には全てが詰まっている。細密と省略が同拠している。細かく描けば北方ルネサンスのネーデルラントの画家並みに精緻であり、時に大胆な省略と可変、それでいてかつ顔の色は白つまり、紙質の色と同じであるのに違和感を与えず、効果線やでトーンを駆使してスピードや光などの様々な現象を多分に表わす。そこには日本のエッセンスが凝縮されている。また手塚の扱ったモチーフが質、量ともにレオナルドやミケランジェロにも相当している点が共通している。だがこれも世界的にはどうなのであろうか、疑問が残る。

問題は欧米式のルールにあるのかもしれん。書きたいから書くのではなく、書くから書きたいことが分かるのだ、は真理だ。書くから書きたいことも、次の課題もみつかるのだ。

総じて、日本におけるレオナルド、ミケランジェロに対する“静”なる造形藝術作品は総合して鑑みた結果、手塚治虫であるという結論に至った。

何か意見のある方いらしたら、教えてつかぁさい。

0 件のコメント:

コメントを投稿