2011年1月18日火曜日

The lark soaring up

 西行の和歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するものは一なり。

 雪舟の『秋冬山水図』については巷に様々な説が流布しているが、どれも的外れな見解を示している。緊密な構成、気迫あふれる筆致、厳しい精神性、等々。わかった。もうたくさんだ。先行研究をこねくり回すことはもうやめにして、新たなオリジナリティーを出して行こう。もちろん本当のところでは、先行研究に敬意を払いつつ。

 山水。見る者の視点を手前の近景から、ゆらゆらと揺れるゆりかごが上昇するように、画面を上へ、上へと、奥へ、奥へと誘導する。山の端を構成する、縁取る線は太く力強く、筆者の力の入れ具合が伝わってくる。時に角々しく、時に直線を引き、筆者の高い線の内圧は手塚治虫の線の力強さを髣髴とさせる。アナクロニズムか、雪舟が先である。この内圧は実際に手塚の画を模写せねばわかるまい。暗黙知であるが、やってみればわかることなので一応書いておく。小舟や帽子を被った人が精緻に、というかまぁ、小さくスラッと手早に流れるように描かれ、奥には銀閣にも似た建物がある。遠くの山の端は薄く描かれ、手前は濃い。そんな濃淡の使い分けがなされている。岩や木々には薄い墨で陰影か模様が描き塗られ、それがあまりに自然なためしっかりと見ねば気付かぬほどに画に一体感を与えている。モノクロの写真のように、要らない情報は排除して、美しいものを喚起させる仕掛けを組んでいる。画面下の手前の塗りミスのような黒々としたかたまりは、狙いなのかは定かではないが、いやきっと狙いである。それが偶然の産物か定かではないが、ミスったと思ったが、そのまま書いていたら意外によくね?と思ったのであろうか、とにかくそれもまた狙いであり、それがものすごい速さで、オノマトペを使わせていただかせれば、しゅっしゅっ、ぐぐっしゅっ、といった感じであろうか、そんな早書きが見てとれる。そういった描き方が画面全体を支配する。手前の水面などは西洋絵画のラフスケッチの陰影を付けるようにしゃっしゃっと素早く筆を走らせているため軽い蛇のような波線が波紋のように揺らめきを与える。画面全体にところどころある黒いちいさな玉は真っ黒黒助であろうか。いや、木霊だ。トトロよりはもののけ姫の方が雪舟は好きらしい。これもアナクロニズムか。建物のすぐ奥にある薄いちいさな、上辺が底辺に比べ短い台形の山が、後光的な効果を生み、あたかもそれは西方浄土、天竺を髣髴とさせる。行く旅人は三蔵法師であり観者自身でもある。さすが禅、仏教である。不立文字である。それも雪舟の狙いである。画面半ばから濃い太線が一気に上昇するように描かれている。それは崖という定説があるが、果たして本当のところはどうなのであろうか。

 ディスクリプションは終わりにして、ここからはオリジナリティーを発揮して行く。先ほどにも述べたように画面中央を縦に上昇するように描かれるこの太い線はいったい何なのであろうか。話をもったいぶるのはやめにしよう。なにもここは漱石の猫ではないのだから、即座に本題に入ろう。総じてこの中央の線は雲雀の上昇線の軌跡である。ぴぃぃーーーーーーーっという魂の声の聞こえぬ者はこの山水を見る資格はない。山水はイマジネーションを必要とする。余白を想像で埋める。ここには日本の、東洋の理想がある。山水などこの世の穢さに、エゴイズムにまみれ、まみれた者にしか結局はわからぬのだ。よく見てほしい。この線は崖ではない。崖なのに後ろが透けているではないか。後ろの山の端が見えるではないか。この線は精神的向上心である。線である。グラフである。欲の重みが線の上昇を妨げているため、途中まで蛇行しているのである。上がっては、時に下がり、上がっては下がりの繰り返しである。しかし、それでも、そんな中においても精神は向上し続けているのである。水面に停めてある船は今までのエゴイズム剥き出しの穢い世界からの脱却を表わす。あとは高みに登るだけである。旅人の真上には旅人の精神の向上を表わすように、雲雀が重力すらも超えた恬淡の世界への急上昇を見せる。

 たちまち足の下で雲雀の声がし出した。谷を見下ろしたが、どこで鳴いているか影も形も見えぬ。ただ声だけが明らかに聞こえる。せっせと忙しく、絶え間なく鳴いている。方幾里の空気が一面に蚤に刺されて居たたまれないような気がする。あの鳥の鳴く音には瞬時の余裕もない。のどかな春の日を鳴きつくし、鳴きあかし、また鳴き暮さなければ気が済まんと見える。その上どこまでも登って行く。雲雀はきっと雲の中で死ぬに相違ない。登り詰めたあげくは、流れて雲に入って、漂うているうちに形は消えてなくなって、ただ声だけが空の裡に残るのかもしれない。春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のあることを忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだ時に目がさめる。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀が鳴くのは口で鳴くのではない。魂全体で鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。―――――『草枕』夏目漱石著

そして ―――― 雪舟の『秋冬山水図』である。

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