2011年1月20日木曜日

拝啓、高階秀爾様

 質疑応答のない講演会はごみである。司会の話が長いのは罪である。勇気を出して質問をした学生に対して、時間がないからと黙殺するのは教育者失格である。それすらも許容できないのであるならば講演する意味などない。講演が単なる出来レースであるならば、もう一回プラトンから読み直したほうがよい。対話にこそ真の講演の意味がある。そこらのミーハーならまだしも秀爾は東京藝大における教養である。生ける伝説である。常識である。場違いな質問であるならば答えずともそれでよろしい。まぁ、そんな空気を読まぬ質問であっても、当の本人が訊きたいと思ったのだから、答えてやるのが本当はいい。だが、今日の講演に携わった者たちはクーリエの資格を一切持たぬ者たちである。過去の遺物を無批判で崇め奉る干物である。乾物である。本日の高階秀爾はごみであった。

 文化功労章をもらったから、それがいったい何であろうか、それよりはひとりの美術を真摯に学ぶ学生の質問に真摯に答えることの方がよっぽど偉い。名誉美術館長だからなんなのであろうか、そんなふんぞり返る館長ばかりだから、日本にアートが根付かないのだ。その罪は極めて重いのである。それに無自覚であるからなお一層困る。そんなんだから本物のアートなどわかりっこないと言われるのである。そんなんだから太郎にバカにされるのである。そんなだから私にもバカにされるのである。評論家は一生評論家である。一生涯、外野からヤジを飛ばしているがよい。自分は安全地帯にいて、上からなんのリスクもとらないでモノばかり言っているから人の心を打つことができないのである。人の心を打つ評論家など小林秀雄と吉田秀和ぐらいである。いや、彼らは批評家ではない。彼らは藝術家であった。批評家、評論家は現場の藝術にとっての寄生虫である。もっとも共生しているから、それはそれであるべきかたちであるのかもしれない。

 評論家が人の心を打たないのは覚悟がないからである。覚悟を持った評論でも人の心を打たないのは、それが常にやりもしないのに上からモノを言うからである。ここに大きな違いがあるのである。批評家は実際に描いてみるべきである。描いて作家に敬意を持ち、その上で評論するがいいのである。とはいっても、評論家はそれを承知の上で評論している。脛に傷を抱えながら評論する哀れな生き物なのである。実際に描いて、モナリザのミクロ点描画法を発見した美術史家が本物の美術史家である。彼は画家でもある。決して評論家ではない。やってみて、いってみせねば人は動かないのである。

 わからぬ。何をそんなに急いでいたのか、皆目見当もつかぬ。そんなに、本当に時間がなかったのであろうか、それともとるに足らぬ質問だとでもおもったのであろうか。新幹線か、それとも飛行機の時間であろうか、いずれにせよ、彼は学生の質問に答えることよりも、時間がないほうを選んだ。一応、以下に私の聞こうとした質問を記す。

 私の質問はこうであった。それは日本における、レオナルドやミケランジェロに相当する造形作品は何かということである。

 実際これだけを聴けば今日の講義に何も関係ないように思えるだろう。だが実に的を得た質問であったのだ。別に講演に関係なくてもいいとは思うが。

高階先生はご存知の通りを多用したが、それはまずもって、間違っている。教養は既に死んでいるから、誰も一見したところで伊勢だの、源氏だのとわかるわけではない。御存じの通りが通じるのは私を含めて、教授、少なくとも博士課程の者だけである。その閉鎖性が美術、藝術を解する上での出発地点になるのであるなら、つまり教養がなければアートはわからないのではないかということになってくる。そこで私の疑問は深まる。

講義は進んだ。 西洋はとにかくみっちりと細部まで細かくぎっしりと描く。それに比して日本は省略を用いる。どちらも“神”を、無限を捕らえるための一つの手段である。レオナルドはミクロ点描法で無限に迫りモナリザを描いた。ミケランジェロは超超絶技巧で無限に迫りピエタを生み出した。では日本は省略を用いてそれに相当する、無限に迫った者は何であったか。そんな疑問が浮かんだ。

 省略は実に利休に、芭蕉に見られる。歌に見られる。

静かさや 岩にしみ入る 蝉の声

夏草や 兵どもが 夢のあと

など、たった15文字に無限の宇宙が広がる。本学の創立者岡倉天心が述べたように、顕示するのではなく、仄めかすことこそに無限の秘密があるのである。私は日本のレオナルドや、ミケランジェロに相当するものは芭蕉や利休ではないかと考えた。だがここでさらに問題が深化する。つまり、その無限は日本人でなければ感じ得ることができないのではないか、つまりはじめにも述べた通り、その藝術の深奥性は教養や言語、文脈などの閉鎖性の中にあるのではないかということとともに、しかし、それでもレオナルドや、ミケランジェロはその閉鎖性を突き抜けたところにあるように思えてならないということだ。そう考えると、日本のレオナルドやミケランジェロは、芭蕉や利休ではなくなってくるわけである。

 日本画の本質は線にあると大観は語ったが、それとかつ、無限の為の省略と、閉鎖性のコンテキストを突き抜けるものはなにかと考えてみる。そうすると私の来歴はひとつの答えに行き着いた。日本におけるレオナルドやミケランジェロに相当する者、それは手塚治虫である。質、量ともに“神”を、無限者を扱っていることも共通している。文字と画の世界も融合している。日本の伝統がまさにそこに根付いている。宮崎駿についてもそうだ。そのことについて訊きたい。

わたしはそう思った。そして今、目の前には生ける伝説がいる。これを訊かずして何を訊く?今訊かずしていつ訊く?そう思って質問した次第であった。

 高階先生の人柄は本当のところ何も知らぬ。ただ一度の見聞でその人柄を判断するのは早計である。だが私はそんな印象を持った。もう会えるかもわからぬ。私は彼の遺言を欲したわけである。私がそんな印象を持ったのも、評論家で知っている人がいたからであり、その彼と比較してしまったためである。彼は時間のことなど決して気にも留めなかった。“時間なんてどうだっていいよ。対話しようじゃないか。諸君!”秀爾は彼を越えられない理由がここにある。彼の名は小林秀雄、真の評論家にして、偉大なる藝術家。彼の評論は時を超える。

 高階先生が一言でもいいので、質問にお答えしてくださることを期待しております。

 

 

0 件のコメント:

コメントを投稿